No.272 「努力論」に学ぶ【2】~運命と人力~

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世に言われる「運命」というものがなければ、それまで続いてきたことが切れて終わる。

 

「運命」というものがあるとすれば、必ずや個人、団体、国家、世界が「運命」の支配を受けているはずである。

 

この「運命」と、個人・団体・国家・世界との間に、何らかの条約・約束のようなものがあるはずである。

 

古から英雄豪傑と呼ばれた人の中には、「私は運命に支配されはしない。自ら運命を支配するものである」といった、熱烈で猛々しい心意気を有した者が存在したことは事実で、かの「天子は命を造る、命を言うべからず」と喝破した者のごときも、「天子というものは人間における大権の所有者で、造物者の絶対権を有するように命を造るものである。その命が自分に利益なしと嘆いたりするようなことほど薄弱なことはない」と、英雄的に言い放ったものである。

 

いかにも面白い言葉であり、およそ英雄的性格を有している人には、常にこのような心意気が多かれ少なかれ存在しているものであり、このような激しく勇猛な意気を抱いている者は、英雄的性格の人物の特徴といってもよい。

 

「運命」が良いとか、悪いとかと言って、女々しい泣き言を並べつつ、他人の同情を買おうとするような者は、愚劣で卑しい輩である。

 

いやしくも英雄の気性があり、豪傑の気骨のある者は、「大丈夫、命(運命)を造るべし、命(運命)を言うべからず」と豪語して、自ら大斧を振るい、巨鑿(きょさく/木材、石材等に穴をあけたり溝を刻んだりする大きな工具)を使って、我が運命を刻み出すことは当然なことなのである。

 

いたずらに売卜者(ばいぼくしゃ/占い師)、観相者(かんそうしゃ/人相を観る人)、推命者(すいめいしゃ/人の命運を推察する人)のような者が言うように、「運命前提説」の捕虜となって、幸運が自分に訪れないことを嘆いたりするようなことはないはずである。

 

世の中に、十干十二支(じっかんじゅうにし/えと)や、九宮二十八宿(星占術、東洋の天文学)などを信じたり、または自分の容姿などによって運命が前提しているものと信じて、不運を嘆く者ほど悲しむべき不幸者はいない。

 

何故かといえば、そのような薄弱・貧弱な心、感情や思想が直ちに悲運を招き、幸運を疎隔する(遠ざける)ことになるからである。

 

生まれた年月や、自分の容貌などが、真にその人の運命に関係するかしないかは別問題としても、そういうことに頭を悩ましたり、苦しんだりするということ自体が、感心せぬことである。

 

『荀子(じゅんし/中国戦国時代の思想家・儒学者)』の書に「非相」の篇があって、相貌(容貌)と運命とは関係がないことを説いているのは二千余年も昔のことである。

 

『論衡(ろんこう/中国後漢時代の思想書)』に「命虚(めいきょ)」の論があり、生まれた年月と運命とに相関がないことを言っているのは漢の時代である。

 

仮に、それらの論議が真実ではないものとして、容貌や生年月日が運命に関係していたとしても、かの因襲的(古くからの習慣やしきたりに従う様子)、従順的な志那人(漢民族)の間でさえ、そういう「運命の前提」というような思想に屈服しない思想を抱いていた者が古の時代から存在していたことを思うと、非常に頼もしい気がするのと同時に、それなのに現代の人に「運命前提論」に屈服するような情けない思想を抱いている者もあるかと思うと、嘆息(非常に嘆くこと)せざるを得ないのである。

 

荀子の言った通り、容貌は似ていても志は似ていない者もあり、王充(おうじゅう/後漢の文人、『論衡』の著者)の言った通り、同時に生き埋めにされた趙(中国の戦国時代に存在していた国)の降卒(降参した兵卒)が、皆同じ生年月日であるはずがないのだが、そのようなことは論外として、とにかく「運命前提論」などには屈服し難いのが、人の本然の(自然な)感情であることは言うまでもない。

 

我々は、たしかに運命に支配されているものであろう。しかし、「運命に支配される」よりは、「運命を支配したい」というのが我々の本当の欲望であり、感情である。

 

であるならば、何故にわざわざ自分を卑下して、自分を小さく考えることがあろうか。

 

直ちに進んで、自ら運命を造るべきのみである。

 

このような気質を「英雄的気象」と言い、このような心意気を持って、これを実現する者を「英雄」と言うのである。

 

もし「運命」というものがないのであれば、人の未来は数学的に予測できるものとなり、三々が九となり、五々が二十五となるように、「今日の行為」によって明日の結果を知ることができる。

 

しかし、人の世の事実は複雑であり、世相は紛糾しているから、容易に「同一行為」が「同一の結果」になることない。

 

そこで誰人の頭にも「運命」というものが朧(おぼろ)げに意識されて、そしてその「運命」というものが偉大な力をもって我々を支配しているように思われるのである。

 

「彼は運命の寵児(ちょうじ/特別に可愛がられる子供)である」、または、「彼は運命から虐待を被っている」というように見えることがある。

 

自分自身のことにしても、ある時は運命の順調に船を航海させているように爽快さを感じ、またある時は、運命の逆風を帆に受けて躊躇(ちちゅう/ぐずぐずと立ち止まること)しているように見えることもある。

 

そこで「運命」という言葉は、大きな権威ある語句として我々の耳に響き、胸に迫ってくるのである。

 

ただし、聡明な観察者とはならなくとも、注意深き観察者となって世間の事実を見渡したならば、我々はすぐに一つの大きな急所を見出すことができるであろう。

 

それは、世の「成功者」は、みな自己の意志や、知慮や、勤勉や、仁徳の力によって好結果を得たことを確信しており、そして「失敗者」は、みな自己の罪ではなく、運命の仕業によって失敗の苦境に陥ったことを嘆いているという事実である。

 

すなわち成功者は、「自己の力」として「運命」を解釈し、失敗者は「運命の力」として「自己」を解釈しているのである。

 

この両者の相反している見解は、どちらかが正しくて、どちらが間違っているかは知らないが、互いに「自らを欺いている」のではないことは間違いない。

 

成功者には「自己の力」が大きく見え、失敗者は「運命の力」が大きく見えるに違いない。

 

このような事実は、そもそも何を表しているのであろうか。

 

まさしく、この両者の見解は、皆いずれもその半分は真実なのであって、両者の見解を統合すると、「全ての真実」になるのではないだろうか。

 

すなわち、「運命」というものも存在しており、人間の幸・不幸に関わっていることに間違いはないが、「個人の力」というものも存在していて、人間の幸・不幸に関わっていることに間違いがないということに帰着するのである。

 

ただその違いは、成功者は「運命の側」を忘れ、失敗者は「個人の力の側」を忘れ、それぞれの一方に観察をしているのである。

 

川を挟んで似たような農村があった。

 

左岸の農夫も豆を植え、右岸の農夫も豆を植えた。

 

それなのに、秋水(しゅうすい/秋季の澄み切った水)が増水して、左岸の堤防は決壊し、そのために右岸の堤防は決壊を免れたことがあった。

 

この時に、「左岸の農夫」は、「運命が自分に災いをもたらしたこと」を嘆き、「右岸の農夫」は、「汗にまみれて農業に従事してきた辛苦の結果、収穫を得たこと」を喜んだとすれば、その両者は、いずれも誤りのない真実と感想を語っているのである。

 

その相反している理由をもって、「左岸の者」と、「右岸の者」の言葉の、どちらかの一方が偽りであり、間違いであるということは言えない。

 

「天運」も真実であり、「人力」も真実であることを否定するわけにはいかないのである。

 

ただ、「左岸の者」は、「人力を忘れて運命論」を言い、「右岸の者」は「運命を忘れて人力論」を言っているのであって、その人力や運命は、「川の左右の違い」をもって扁行扁廃しているものではないことは明白である。

 

さて、既に「運命」というものがあって、事情もはっきりしないまま流行している以上は、「運命流行」の原則を知って、そして幸運を招き、悲運を排除したいというのは、誰もが抱く思いである。

 

そこで、この当然な人の欲望に乗じて、推命者だの、観相者だの、占い師だのが増えて、神秘的な言説を弄しているが、神秘的のことはしばらく置いておいて、論ずまい。

 

我々はあくまでも論理的に道理を判断して、はっきりしない「運命」というものの真実を晴らしていくべきである。

 

「理智(論理的に考え判断する能力)」は我々に何を教えるのであろうか。

 

 

「理智」が我々に教えて言うには、「運命流行の原則は、“運命そのもの”のみがこれを知っている。ただ、“運命と人力との関係”においては、私はこれをよく知っている」と。

 

「運命」とは何であるか。

 

時計の針の進行が、すなわち「運命」なのである。

 

一時の次に二時が来て、二時の次に三時が来て、四時、五時、六時となり、七時、八時、九時となり、このように一日が去り、一日が来て、ひと月が去り、ひと月が来て、春が去り、夏が来て、秋が去り、冬が来て、一年が去り、一年が来て、人が生まれ、人が死に、地球が生まれ、地球が壊れる。

 

それがすなわち「運命」である。

 

世界や国家や団体や個人にとっての「幸運・悲運」というものは、実は「運命の小さな断片」であって、それに対して「人間の勝手な評価」を言っているのに過ぎないのである。

 

しかし、人は既に「好運と思えること」を知り、「非運と思えること」を知っている以上は、その「好運」を呼び招き、「非運」を排斥したいと思うのは当然な欲望である。

 

で、もし「運命を引き動かせる」ような手段があるならば、人力をもってその幸運を引き寄せ、招きさえすればよいのである。

 

すなわち「人力と好運」とを結び付けたいので、「人力と非運」を結び付けたくないのであって、それが万人の「偽りのない欲望」なのである。

 

「注意深き観察者」となって世間を見渡すことは、「最良の教え」を得る道である。

 

「失敗者」を見、「成功者」を見、「幸福者」を見、「不幸者」を見、そうして、ある者が「どのような方法」で好運を引き出し、ある者が「どのような方法」で非運を引き出したかを見ると、我々は明らかに大きな教訓を得るのである。

 

これはすなわち、「好運を引き出すことのできる方」は、引き出す者の掌を血にまみれさせ、「非運を引き出す方」は、滑膩油沢(かつじゆうたく/なめらかでしっとりした)で柔軟であるという事実である。

 

すなわち、「好運を引き出す人」は常に「自己」を責め、自己の掌より血を滴らせ、耐え難き痛みや苦しみを忍び、「好運の線」を引き動かしつつ、ついに大きな好運の神を招くのである。

 

何事においても、「自己を責める精神」に富み、一切の過失や、齟齬(食い違い)や、不足や、不自然さや、あらゆる拙いこと、愚かなこと、良くないことの原因を「自身のみ」に帰して、決して部下を責めず、友人を責めず、他人を咎めず、ただただ「自分の掌の皮が薄く、自分の腕の力が足りないから幸運を招き寄せることができないのだ」として、厳しい痛さ苦しさを耐え忍びつつ、事を受け入れて努力する者は、「世上の成功者」が必ず行った事例である。

 

確かに「自分を責める」という事ほど、有力に「自分の欠陥」を補っていくことはなく、「自己の欠陥」を補っていくことほど、自分に「成功者の資格」を得させる方法がないことは明白な道理である。

 

また「自らを責める」ということほど、有力に「他者の同情」を惹くことはなく、「他者の同情」を惹くことほど、「自己の事業」を成功に近づけることがないのも明白な道理である。

 

前に挙げた「左岸の農夫」が、豆を植えて収穫を得られなかった場合に、その農夫が「運命」を恨み、咎めることよりも、「自らを責める念」が強く、「これは自分の智力が足らず、予想が緻密ではなかったからだ。来年は豆を高知に植えて、低地には黍(きび)を栽培すべきだ」というように、損害の苦しみを耐えて「次年の計画」を良くしたならば、幸運が来ないとは限らない。

 

すべて古来の偉人、傑人の伝記を繙(ひもと)いてみたならば、いずれも必ず「自らを責める人々」であって、人を責め、他者を恨むような人はいないことを見出すだろうし、更に翻(ひるがえ)って、様々な不祥事を引き起こした人の経歴を調べると、必ずその人たちは「自己を責める念」が乏しく、他を責め、人を恨む心の強い人であることを見出すだろう。

 

「非運を引き出す人」は、常に「自己」を責めず、「他人」を責め、恨むものである。

 

そして、「柔軟な手当たりの良い方法」を手にして、「自己の掌を痛めるほどの事」をせず、容易に、軽く、かつ醜い悲運の神を引き出してくるのである。

 

「自己の掌」より血を滴(したた)らすか、「滑沢柔軟なもの」のみを握るか、この二つは、明らかに「人力と運命との関係」の好否を語る際の目安である。

 

運命のいずれかを招致しようとする者は、深く考えるべきである。

 

 

 

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